言わないということは特に何も言いたいことがない

言わないということは特に何も言いたいことがない




言わないということは特に何も言いたいことがない、とみなされることがオーストラリアでは多いと感じます。


オーストラリアに来て大きな違い、かつ私がまだ慣れきれない国民性または文化の違いの一つが、「思っていることは言わないと伝わらない」ということです。特に日本では空気を読む、行間を読む、推し量るという優しい優しい文化があります。私も何かを伝えたい時に、相手が気づくような方法をとったり、そういう空気を自分自身が感じ取ったりして育ってきました。そんな私にとって難しいのが、こちらの文化。


基本的に思っていることをいうような文化なので、言わないと伝わっていないことが多々あります。

お互いに何か思っていたら言い合うので、言わないということは特に何も言いたいことがない、そのように判断されているようなことが多々ありました。


いつまでも日本の癖で、何も考えずに行動すると、「言わない」ということが起こってしまいやすいです。

あの人のあの態度はこうだからこう、こういったのはこうだからこう、と自分の過去の経験から勝手に「推し量る」ということをしてしまうのです。と言っても相手が日本人であれば、相手も推し量ってくれることが多いので私としては非常に気持ちが良いのですが、海外にいれば日本人より日本人以外の人と関わることとその必要性が出てきます。


日本人以外の人であれば、もちろん日本人でも違いますが、思ってもいない反応や考え方ということがよくあります。

それなのに、日本人の私の「推し量る」というのは非常に危険なことでもあるのです。

自分の推測していることと、実際彼等の考えていること、または考えていないことというのが大きく異なることがあるからです。


しかし、だからといって難しいのではなく、お互い伝え合えば、理解できるということだと思います。

時に、相手の言っていることはわかるものの、受け入れられない、理解できないという意味での分かり合えないということはあるかもしれませんが、それは国は関係なく個人個人の相性などによるものと思います。


今は、この国にいる以上、思ったことは言わないといけないということ、分からないことは聞かないといけないということはわかりました(実際にできるかどうかは別として)。その反面、相手からも何かあったら言われると思ってしまっているところもあるので、「推し量る」という能力が落ちてきているようにも感じます。


海外で会う人の中に、日本人らしさが残り、日本人らしく生きている方、海外に馴染んでバッサリと発言する方、そういった人の中に、時に海外での生活にも馴染みんでいるのに、日本人らしい推し量りの心がある方にお目にかかることがあります。郷に入れば郷に従え、という言葉と実際の生活を考えるとオーストラリア流に合わせる方がスムーズだとは思うのですが、それでも日本人らしさというものに私は美徳を感じるのです。


話はタイトルに戻りますが、そういう文化の中で一番問題となるのは、「言わない」ということを「何も言いたいことがない人」「意見のない人」という判断を受けてしまう可能性が高いこと、そして意見がないということは意見が正しいとか間違っているということ以上につまらない人、考えていない人と思われる可能性が高いという判断を受けてしまうリスクがあるということです。







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