他の国の人の強さ
仕事などを通して、ワーキングホリデーや学生ビザでオーストラリアに来ている人に会う機会が多くあり、その中で感じたことがあります。
もちろん大学生など、在学中で短期的に来ているという人もいますが、多くの方は日本で社会経験のある方々でした。
日本人だけでなく、他の国の人も同じです。
日本や韓国、台湾は状況が似ているように感じました、ヨーロッパ系だとある程度の年齢の時に海外を旅して回ることでいろいろな感覚をつけるのか、オーストラリアにこだわって…というよりは、転々とする海外のうちの一つのような印象を受けました。
南米や東アジア(タイやインドネシアなど)では、来ている人は母国では裕福な人たちが多いと感じます。私の友人たちもこれらの国出身の人はたいていみなさんお手伝いさんがいる生活だったようです。日本は中流家庭がほとんどですから、いろいろな国から人が集まって、同じような環境で生活をしていても、生活のレベルのバックグラウンドが違うということは面白い気づきでした。私が学生だった頃、周りの人たちは同じ学生だけど、上流階級の人たちだと思っており、日本人の中流家庭の私は一番貧乏なんじゃないかと思いました。
そんなバックグラウンドはさておき、剛に入ったら郷に従えというか、オーストラリアに入ってしまったら同じコンディションです。先にあげた日本、韓国、台湾、ヨーロッパ(全てではない)は学生ビザでもワーホリビザでも入国できますが、南米(チリはワーホリがあったはず)や東アジア(タイはワーホリがあるが条件が難しいらしい)はワーホリの選択肢がないため、学生ビザがほとんど。学生ビザであればしっかり学校に通い、課題があり、リサーチがあり、忙しくなり、また、就労制限というか条件があり、働く時間などに規制があります。つまり、学校のスケジュールに合わせて仕事を探さないといけず、探したところで大まかに週20時間(2週間で40時間)という制限もクリアしないといけません。週20時間というと1日4時間×5日(月曜日〜金曜日)というイメージでしょうか。学生ビザ(修士とかではなく、語学留学などの場合)では週20時間の出席が必要ですから、こちらも毎日(月〜金)の1日4時間という感じでしょうか。
1日のパターンは、うまくいけば月曜ー金曜の朝9時から午後2時頃(休憩含め4時間)、そして午後5−9時で仕事という感じ。これに国ごとの傾向が見られました。イタリアの友人たちは多くが、カフェで朝働いたり、夕方イタリアンレストランで働いたり。日本・韓国・台湾の方は朝学校に行き、夕方から日本食レストランで働いたり、そして南米系は朝学校に来て、夕方はクリーナーの仕事をしている方が多くいると感じました。
おそらく、イタリアン、フレンチ、スパニッシュ、日本、韓国、台湾のレストランは多いため、仕事自体も多いということもあると思いますが、南米系の知り合いでもちろん、長く滞在するにつれて語学→修士に進む人が多いので修士などになったら条件が代わるので働き方も変わりますが、語学の間は、ほとんどの人がクリーナーのお仕事をされていました。日本人が日本食レストランで働きやすいように、南米の方にとっては何かコネがあるのかクリーナーのお仕事が得やすかったのかもしれません。
私が気づいたことは、彼ら南米の人たちは母国ではいわゆる良い暮らしをして、しっかりと教育を受けてきた人たちが、オーストラリアではクリーナーの仕事をするということです。私の知人の中には、母国では弁護士をしていた人や会計士もオーストラリアではクリーナーの仕事。そして、語学を終えたらそのまま修士などで元々母国でのキャリアなどをさらに深く勉強しているケースが多いと感じました。南米で会計士→英語+クリーナー→会計学→オーストラリアで会計士などです。
私も含めて、私の知る人の中でも、日本であったキャリアから外れ、しばらくの間本人の希望にそぐわない期間や仕事をすることも海外に行けばあると思います。その時に、どうしても何か違うなと感じることもあるかもしれませんが、その時に逆に何がしたいのか、どういうことが好きなのかが見えてくることもあれば、違うことに楽しみを見出すということもあるかもしれません。
私の知り合いは、そういった経験から日本に帰った時の仕事の仕方(短期での仕事でしたが)は昔のそれとは大きく違うと感じました。どんな仕事だっていい、というか選り好みをして最終的に何も決められないということも人生にはあると思いますが、そういう潔さを持っていたように思います。これがいい、あれがいい、これが嫌、あれが嫌と始めてしまうと、なかなか仕事でも人でも「これだ!」と思うものに手を出すということは難しくなると思います。
目的が明確であること、目的が明確であればその手段として妥協することも必要な時があること、一旦決めたら日々くよくよしたり、迷ったりしないで、目的に対する手段だと思って全うすること。選択はシンプルに、ストレスは少なく、それははたから見たらざっくりしているように見えるかもしれませんが、本当は真の通った強さなんじゃないかと思うのです。