自分のスタンダードで見るのはやめよう

自分のスタンダードで見るのはやめよう




国は違うし、文化も習慣も違う。

言葉も違えばもちろん考え方も違う。

髪の毛の色も目の色も肌の色もまるで違う。

特に大きいのは話す言葉が違うということは自分と相手に距離を感じてしまうことの大きな要素だと思う。


生物上の分類をしたら同じ「人間」なのに、まるで全く別の生き物を見るように見てしまう感覚に陥ることも海外に出て行けばあるかもしれません。


良い意味でも悪い意味でも、どれだけ言葉や見た目が異なっていても、私たちは同じ「人間」という生物なのだなと感じます。

親を大切にする気持ち、子供を想う気持ち、誰かを好きになるということ、そういう気持ちも同じ。

反対に、疲れている時は言い方がきつくなってしまったり、怠け心が出てしまったり、そういうことも同じ。


先日こんな場面に出くわしました。

私と中国人の友人が一緒にいる際に別の友人のオーストラリア人女性と出くわした時のことです。

オーストラリア人の彼女は本当に健康的なライフスタイルと食生活を送っています。一緒にいた私の友人はその時、疲れていてランチの時間もなかったからとナッツバーを食べていたのですが、その時にオーストラリアの友人の目線が「そんなものを食べるの?」という感じだったのです。


ナッツバーはスナックの中では比較的健康なものだと私は思うのですが、彼女はスナックは手作りのもの、ナッツバーのようなものでも自分で作るので市販のナッツバーなどは食べないのです。だから彼女からしてみたら驚いてしまうということも分からなくもないですが、それを周りの人に感じさせてしまうということは一体どうなのだろうかと思いました。


仕事の場面でも、自分が人一倍仕事ができる人はそうでない人(自分の基準に満たない人)に対して、判断が厳しくなるように感じます。人間の性格にしても、その人が優しければ優しいほど、他人は自分ほどは優しくないんだなと感じてしまったり、これは日本人には多いかもしれませんが、日本人は非常にきめ細かく面倒見が良いので、そうでない人がいないとその人がまるでダメ(自分が優れているのではなく、相手がダメ)と思ってしまう傾向があると思います。


海外で印象的だった言葉の一つに「あなたはInternational」と言われたことがあります。

つまり現地の人ではない、日本語でいうと「あなたは外人」と言われることに似ているのかもしれないなと感じました。

私の友人(オーストラリア)が日本に来てショックだったことの一つに、子供が彼を指差して「あ、外人だ」と言われたことだと言っていました。

「外人」という言葉は、私には「あなたはよそから来た人、よそ者」という印象に聞こえます。

そしてその言葉は、その言葉を発する人以上に、言われた人は寂しさを感じる言葉だと思います。


世界に出れば、見た目も言葉も考え方も全然違う人に出会います。

全く違うという印象を受けることもありますが、同じ人間として「心」というものがあり、同じようなことに喜びもすれば傷つきもします。


どんな分野でも能力が高い人(特に意識していなくても)はそうでない人に対して厳しい目を向けることがあるかもしれません。海外や日本においては自分の国の言葉を話すことは当たり前なので、英語が母国語の人にとっては英語ができない人は英語が「できない人」、日本では日本語が話せない人がいたら日本語が「話せない人」と思われることでしょう。


これは日本人だけではなく、海外の人も含めて、人間として気づいていてほしいところだなと思います。

「できる」ということは当たり前のようで当たり前ではないのですから。。






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コメント
2
2016-07-22 11:36:00
いつもながら、心に響く投稿ありがとうございます。 当たり前のようで当たり前じゃないことって、本当沢山ありますよね。

実際にAkikoさんとお会いしてから読むと、読んでる時に感じることも更に深くなった気がします^^
2016-07-25 19:02:11
ありがとうございます。今週末は人生で初めての「家なき子」に成ってしまいました。
心の面でもそうですが、当たり前にあるものの大切さを改めて感じました。